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Dialogues

著者は編集者の「衣食の父母」である

  • 董秀玉(中国編集学会副会長)
  • 加藤敬事(元・みすず書房代表取締役社長)

編集者とは何か、著者とは何か。国を異にするふたりの編集者が、ひとりの著者と作品をめぐって語り合う。

著者になるのがいいか、編集者になるのがいいか

加藤

東アジア出版人会議の準備のために北京を訪れて、董さんにお会いしたのはたしか2005年の春でしたね。そのとき、董さんとのお話で、「著者になるのがいいか、編集者になるのがいいか」という話題になりました。そこで董さんは「編集者は著者よりも多くの本を世に送り出すことができる」と言われた。そのお話がいまでも印象に残っています。

編集者ならより多くの著者と接することもできますね。編集者は必ずしも何かの専門家である必要はありません。編集者の仕事とは、すぐれた専門家やクリエイターを見出すことにあります。そして、時代や読者が求めるものを踏まえながら、彼らの著作を数多く出版することにあるのです。

加藤

私も同じ考えです。それは編集者とは何かということを的確に言い表していると思います。編集者の役割とか地位といったものは、中国、韓国、日本それぞれの社会において少しずつ異なるものであるにしても、本質的には共通しているものでしょうね。ある書物が、なぜ、いま世に存在しなければならないかという判断は、専門家とはまた別な編集者としての判断が求められます。

編集者は本をつくるなかで、著者に直接会うこともあれば、本を通じて出会うこともあります。私が勤めていた出版社(みすず書房)は、いまでも翻訳書をずいぶん出していますが、翻訳書の場合、著者に会いたくでも実際に会えるものではない。翻訳を通じて、あるいはその本を読むことを通じて、著者との交流を感じることがあります。

たとえば、楊絳(ヤンジャン)という中国の知識人で作家の女性がいますが、私は1985年に彼女の『幹校六記』(「幹校」とは、文革時期に知識人が思想改造のために送られた辺地に設けられた「幹部学校」の略称。「六記」は清朝の沈復が亡妻との生活を淡々と記した『浮生六記』にちなむ)という本の翻訳をみすず書房から出しました(中島みどり訳)。これはすぐれた文学作品でもあるけれども、当時、中国文学という位置づけでは本がなかなか売れないために、文化大革命下の知識人の記録として出版しました。

それから20年ほど経って、昨年の春に偶然、北京の書店で楊絳さんの新作『私たち三人』(三聯書店、2003)のポスターを見て、しかもそれが70万部も売れていると知ったときは感慨もひとしおでした。というのも、私は楊絳さんの本を日本で最初に出した編集者でしたし、日本ではさっぱり売れなかったから。ところが、驚いたのはそれだけではなかった。じつは董さんは楊絳さんの編集者だった。これは単なる偶然とは思えない(笑)。そこでまず、楊絳さんの本を編集されたときのことをお聞きしたいのです。

楊絳著『幹校六記』改訂版(1992年、中国社会科学出版社)

楊絳著『幹校六記』日本語訳書(中島みどり訳、1985年、みすず書房)

私が編集を担当した楊絳さんの本は、散文集『幹校六記』が最初です。『幹校六記』は当初、香港の広角鏡出版社から1981年に出版されていました。その内容は、当時はまだ微妙な問題だった文革期のことだったのですが、当時の三聯書店の編集局長だった范用(ファン・ヨン)さんがこれを手に入れ、一気に読了すると、私に手渡したのです。それを私も読んで非常に感動しました。私たちは国内でも『幹校六記』を出版できると判断し、さっそく楊さんに連絡しました。そして、その数カ月後に、北京の生活・読書・新知三聯書店から出版したわけです。

加藤

楊絳さんに興味をもたれたきっかけは何だったのでしょうか。

もともと楊絳さんの散文がとても好きでした。楊絳さんのご主人である銭鍾書(チェン・ジョンシュ)先生の散文よりもいいと思っています(笑)。1970年代末か80年代はじめのころ、中国の文学界では「傷痕文学」(1970年代末の文学思潮)が台頭しはじめていて、作家はみな文革を告発し、その恐怖や悲しみを非常にリアルに描いていました。『幹校六記』で語られるのは、彼女と銭鍾書先生が幹校での批判闘争のなかで過ごした2年あまりの生活です。下放された兪平伯(ユ・ピンボ)、銭鍾書といった偉大な知識人は、農村の幹校でボイラー作業、牛の放牧、井戸掘り、郵便配達などの仕事をさせられました。楊さんは本書で、当時の情景や思索――たとえば、労働、別離、休息、愛情、幸福、夢想――を、含蓄のある、しかし平易な文章で綴っています。「悲しむが傷心はしない、恨むが怒りはしない」(哀而不傷、怨而不怒)というべき淡々とした文章です。しかし、だからこそ読者は、悲しみや怒りの大きさを行間から読み取ることになるのです。

加藤

『幹校六記』の翻訳を日本で出版したとき、その書評として、中国文学に詳しい評者が「文革を告発するなら、もっと直接にするべきではないか」というような指摘をしたことがありました。それは「傷痕文学」のほうを評価したのでしょう。でもそのような評価は、作者の意図とは正反対の受け止め方だったわけですね。チェコの作家でフランスに亡命したミラン・クンデラが、その小説『冗談』について、これをスターリニズム告発の文学とは言わないでほしい、これは「恋愛小説」なのだから、と言っているのと同じような現象でしょう。

『幹校六記』は中国で100万部以上売れました。さらに日本語のほか、英語、フランス語、スペイン語にも翻訳されています。今でもこんなシーンを思い出します。下放後、高齢や病気という理由でかなりの知識人が北京に戻りました。それは同時に、残された者たちは一生この幹校で暮らすことを意味したのです。帰京を許されなかった銭先生と楊さんのふたりは菜園に残り、楊さんが掘立小屋を指差して「この小屋に住むことにしましょうか?」と聞きます。銭先生はまじめな顔をして「本がないよ」と言いました。楊さんが「あのとき北京に戻らなかったことを後悔しているの?」と尋ねると、銭先生は「時間が巻き戻っても同じことをするだろうね」と答えました。このような過酷な状況のなかでさえ、自分の意志を貫いていく彼らに、心を打たれずにいられません。このような知識人こそ、私たち民族の誇りだと思います。

翻訳しても伝わらないこと

加藤

楊絳さんの本は、どういうわけか日本ではあまり売れていません。残念なことですが。

私が思うに、楊絳さんの作品は、小説『洗澡』(邦訳『風呂』中島みどり訳、みすず書房)を含めて、外国ではあまり売れないかもしれません。思想性に満ちた真面目な散文作品ですし、同時に、そこに描かれた生活の実情と外国の読者とのあいだにはやはり隔たりがありますから。細微にわたっての理解は、その背景を知らないとむずかしいでしょう。

加藤

かつて、ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソビチの一日』が世界中でベストセラーになったことがありますね。ソ連の収容所での一日の生活を書いている小さな本です。これも細部が丹念に描かれた、ある意味で悲劇なのですが、それにくらべると、『幹校六記』にはユーモアがある。客観的というか、対象との独特な距離感をもって書かれている。たぶんその書きぶりが日本の読者には理解しにくいのかもしれない。日本の作家には、楊絳さんのように、重いことを軽く書ける人はほとんどいませんから。

今回、董さんとお話をするために、あらためて『幹校六記』を中国語の原書で読んでみたんです。すると、わりと簡潔で乾いた文章なんですね。これを日本語にすると、ある湿度が感じられる。それは翻訳の優劣の問題ではなくて、言語そのものがもっている特性ではないか。そう考えると、言語によってユーモアの質が異なるような気がします。

楊絳さんはしっかりとした文章の基礎をもっていて、しかも希有なユーモリストです。それには、彼女のそれまでの仕事が密接にかかわっていると思います。というのも、じつは彼女は銭先生より先に文学界で名を成していた。1940年代の初期に「称心如意(お気に召すまま)」(4幕喜劇)と「弄真成假(誠から出た嘘)」(5幕現代劇)という2つの脚本を書いて一躍有名になったのです(いずれも世界書局刊、1943)。1943年に「称心如意」が上海で上演されましたが、その舞台の監督には、当時、黄佐臨という著名な映画監督があたり、主役はこれも著名な翻訳者の李健吾が担当しました。銭先生の代表作である小説『囲城』(邦訳『結婚狂詩曲』中島みどりほか訳、岩波文庫)は、その舞台を観劇した銭先生が帰り道に着想したのだと楊さんがおっしゃっていました。

加藤

なるほど、そうだったのですか。楊絳さんはそのいっぽうで、西洋文学の研究や翻訳の仕事もされていましたね。

彼女のすぐれた翻訳の仕事のひとつに、セルバンテスの『ドン・キホーテ』の翻訳(人民文学出版社、1978)があります。彼女は1957年から『ドン・キホーテ』の翻訳に着手するわけですが、そのとき、スペイン語の原書のほか、英語、ドイツ語、フランス語などの訳本を収集して詳細に研究したうえで、スペイン語の原文から翻訳することに決めた。ところが、彼女はスペイン語に不安があった。そこで彼女はスペイン語を学びながら21年もの歳月をかけて『ドン・キホーテ』を訳出したのです。それほどまでの努力家なのですね。彼女の訳本は、『ドン・キホーテ』のあらゆる訳本のなかでももっともすぐれていて、これまでに70万部あまり売れています。たいしたものですよ。

加藤

楊絳さんの仕事のひとつで印象深いのは、イギリスの作家オースティンの『高慢と偏見』について書かれた「どこがいいのか」というエッセイです。そのなかで楊絳さんはオースティンのことばを引用していますね。「この世界は理智によって理解すれば一個の喜劇であり、感情によって理解すれば一個の悲劇である」と。これはすばらしい。楊絳さんの文学は、イギリス文学の伝統を強く受け継いでいると思いますね。コミカルなスタイルというか、ユーモアのセンスというか、そうしたイギリス文学のひとつの伝統と、中国文学の伝統がじつにみごとに混ざり合っている。

中国の知識人や作家、とりわけ楊絳さんや銭先生は、「典故」(故実)を好んでよく使われます。これも外国の読者にとって理解がむずかしい点かもしれません。文章のなかで用いられる「典故」の出処がわからなければ、その内容を深く理解するのはきわめてむずかしくなりますからね。ですから、たとえすぐれた翻訳であっても、その意味が完全には伝わらないことがあると思います。

加藤

『幹校六記』の冒頭近くのシーンに、幹校に出発する知識人の先頭に立つ『紅楼夢』研究の70歳を越えた老大家、兪平伯先生の姿がある。それがどんなに悲喜劇的であるかを想像するのは、たしかに外国の読者にはむずかしいかもしれない。中国の学者のことはほとんど知りませんから。だいたいこの日本語訳を出すとき、タイトルをどう訳したらいいか思い悩みましたね。結局、どうにもならずに原題をそのまま使いました(笑)。もうひとつの楊絳さんの小説『洗澡』は『風呂』と訳して出しました。

『洗澡』を直訳されたのですね。私たちは「整風」運動(思想傾向・仕事態度の整頓運動)することを「お風呂」というのです。中国人ならみな知っていることですが、外国人にはそのニュアンスは伝わらないかもしれませんね。

加藤

「整風」の意味は、日本でいう「洗脳」に近いのではないかとは思ったんですが、これも「典故」と同様に日本人にはわからないでしょうね。「風呂」というタイトルに少々滑稽味はあっても、当然ながら意味までは伝わらなかった。ところで、日本では楊絳さんのエッセイ集『将飲茶』も翻訳されていますが、その邦題が『お茶をどうぞ』(中島みどり訳、平凡社)。これも直訳です。

『将飲茶』のなかに「孟婆茶」という散文がありますが、これは中国の昔話「孟婆茶」(孟婆とは冥府で死者の霊魂の転生を司る女神の名)に拠っています。つまり、孟婆茶を飲んで(生前のことを忘れて)、奈何橋(死者が渡る橋)を渡るという典故で、ここでは死に近い境遇というニュアンスが込められている。楊絳さんはこのようにじぶんの文章のなかで典故を多用していますけれど、それでも日本の訳本は中国の原文にもっとも近いものです。それにくらべてフランスの訳本なんてさっぱりわからないのではないでしょうか。

加藤

翻訳してもなかなか伝わらないことはたしかにありますね。とりわけ、そういうところが楊絳さんの文学の深みであったり、本質的なものであったりしますから、それを乗り越えて理解するのは相当むずかしいことでしょう。そのいっぽうで、日本人に親しまれている中国の作家に魯迅がいます。魯迅の文章は日本の訳文よりやはり乾いている。おそらく中国と日本の言葉のあいだにある感性のちがいだと思いますが、それでも魯迅が日本人に人気なのは、翻訳でしっかり伝わるところがあるからだと思うんです。

魯迅さんの文章はもともと明快で戦略的なので、翻訳してもわかりやすいのかもしれませんね。いっぽう、楊絳さんの文章は「真綿に針を隠す」(「綿里蔵針」)というか、一見綿のようでありながら、中身は非常に鋭く深い。ですからその点、まず翻訳者が十分に理解できなければ、その著者の意図を伝えることもむずかしいと思いますね。

中国のふたりの知識人——銭鍾書と楊絳

加藤

ところで、中国には楊絳さんのようなきわめて知的な散文の伝統といったものはあるのでしょうか。

楊絳さんご自身がどのような作家を好んでおられるのか知りませんが、彼女のような筆致には中国の散文大家、たとえば欧陽修、柳宗元,陶渊明などの影響があるように私は思います。

先ほども言いましたとおり、楊絳さんは1940年代にすでに名を成していましたが、一般に知られるようになったのは『幹校六記』や『洗澡』などの作品が出版されてからです。その意味で、中国の女性作家として、彼女の存在は長年にわたり埋もれていたといえます。彼女の文章力と生活能力、そして種々の問題を解決する能力は、家庭内で大きな役割を果たしてきました。ですから私は、あなたこそが一家の大黒柱だと楊さんに言ったことがあります。ご主人の銭先生をたて、じぶんの存在を極力小さくして銭先生を全面的にサポートしてきたのです。

楊絳さんが脚本を手がけたふたつの舞台を観た帰り道で、銭先生がかの有名な『囲城』を書くことを決めたとき、彼女は「いいですよ、ぜひ書いてください。私が手伝うわ」と宣言された。当時は戦争中で生活も楽ではなく、銭先生が時給制の大学講師の仕事で家計を支えていたのですが、先生が小説を書くとなると、必然的に仕事の時間が減ることになる。そこで彼女は節約のために、それまで雇っていた女中さんに辞めてもらい、みずから家事をこなした。そのようすはほんとうに古き良き伝統の姿ですね。

当時、銭先生はまったくの無名でしたが、楊絳さんは銭先生の作品の最初の読者でもありました。銭先生は『宋詩選注』(人民文学出版社、1958)を執筆していたあいだ、ひとつ一つの注釈を必ず楊絳さんに聞かせたという。彼女が一読者として理解できれば次の注釈の執筆に進む、わからなかったら理解できるまで書き直す、そういう作業をふたりでされていたというのです。

加藤

銭鍾書先生の『宋詩選注』は、平凡社の東洋文庫から全4巻で翻訳が出ていますが(宋代詩文研究会訳注、2004-05)、そうすると、いってみれば、楊絳さんは銭先生の編集者だったんですね。

彼女がいなければ、銭先生の本は世に出なかったでしょうね。たとえば、銭先生の『管錐編』は、文革中に造反派に没収されていたものを、楊さんが危険をかえりみず取り戻してきたものなのです。『槐聚詩存』は、すべて楊さんがみずから一字一句書き写したものですし、銭先生が亡くなってから出版された作品集(『銭鍾書集』三聯書店、2002)は、楊さんが整理したものです。それ以上に精魂を込めて楊さんが整理したものに、『銭鍾書手稿集』(商務印書館、2003)があります。

加藤

そうですか、それはもう信じられませんね。中国女性の偉大な一面を見る思いがします。

銭先生と楊絳さんは、中国の知識人のあいだでも有名なおしどり夫婦で、ふたりは娘の銭瑗(チェン・ユアン)さんとともによく文字遊び(詩や古典などの語句からその典拠をお互いに言い当てること)をしていました。そのようすは中国の文人の典型的な家庭像でしたね。お宅にうかがうたびに目にしたのは、ふたりがそれぞれの机で読書している光景でした。楊絳さんは、読書は「串門児」(だべってまわること)のように、じつに楽しいことです、と言います。本を読むことには、だれかに会うための予約はいらない。著名な方などを訪問するには、その約束を取り付けることもむずかしいし、その方が100年前の人ならそれさえかなわない。でも、本を読むことでいつでもそれができるし、興味がなければ本を閉じればいいし、帰るときに堅苦しい挨拶をしなくでもすむ。なんて楽しいことでしょうと。それこそ「天涯でも隣同士」のようですし、過去・現在・未来を通してみることができるのは、読書という営みしかないのですよ、というのです。

加藤

じつにすばらしいお話ですね。そういう姿勢は楊絳さんが書かれた文章からも感じられるような気がします。中国にはそのような知識人がいることを日本の人にももっと知ってもらいたい。

著者に寄り添い、著者を知り尽くす

編集者と著者の関係について、私たちは出版界の大先輩たちから、「著者はわれわれの『衣食の父母』(衣食父母)である」と教え込まれてきました。著者を尊重することは編集者にとってほんとうに大事なことで、けして忘れてはならない。これは編集者の役割を過小評価するものではありません。むしろ、市場経済化がすすむいま、ひとつの作品、一冊の本を最良の方法で世に出すためにはたすべき編集者の役割は大きくなっているのです。たとえば、楊絳さんの『私たち三人』の出版においても編集者が大きな役割をはたしました。それはこの本が実際に大きな反響をよんだことからもわかります。

『私たち三人』の場合、まず7万文字の原稿をいただいたのですが、私たちは写真も載せようと考えました。そのときは、写真を多用した本にしようとしていたのです。しかし私は原稿を読んでこのアイデアを却下した。なぜかというと、楊絳さんの文章は一気に読むことで持ち味が出るのが特徴なので、写真を多用することで文章の流れが中断されると、その味わいを損なう可能性があったからです。さらに写真をカラーにする案もありましたがこれも却下。カラー印刷は原稿の内容と雰囲気にふさわしくないと判断したのです。そのようにして何度も編集方針を議論し、結果的に写真の点数を抑え、モノクロ写真を二色で印刷することにしました。また、本全体として家庭の温かさを演出するために、娘さんの詩と絵、そして楊絳さんの手書きのキャプションを使いました。娘さんの絵を使うことができたのは、楊絳さんがきちんと保存していたからです。写真は夫婦と娘の3人揃いの写真を中心に選び、「私たち三人」というコンセプトを意識して編集したわけです。

楊絳著『私たち三人』原書(2003年、生活・読書・新知三聯書店)

加藤

その成果はみごとに表われていますね。本の設計と内容がマッチしている。娘さんの絵もすばらしいし、手書きのキャプションも、“私たち三人家族”のアンチームな雰囲気を映してじつに味わい深いですよ。

宣伝も地道におこないました。楊絳さんはマスコミに出るのはお嫌いなので、彼女の娘さんの友人や娘さんの教え子などと対談してもらい、それを宣伝に使いました。というのも、私たちは編集者として、彼女の本を多くの読者に読んでもらうために、彼女自身を世に広く紹介することも必要だと考えたからです。

加藤

なるほど、そう考えると、楊絳さんの本が日本で売れなかったのは日本の編集者の責任かもしれない(笑)。

 

ところで、『私たち三人』は董さんが企画されたのですか?

じつはそうなんです。当時、銭先生と娘の銭瑗さんがふたりとも入院していて、病状も末期的でした。それ以外にも問題を抱えていて、楊絳さんはひどく落ち込んでいました。そこで私は、思い悩むより、とにかく家族三人のことを書くように薦めました。「あなたにしかできないことだし、意義のある仕事だ」と。彼女は私の提案を受け入れてくれました。でも執筆をはじめたのは、銭先生と娘の銭瑗さんが亡くなった後のことでした。

『私たち三人』のなかで、私がもっとも感動したのは娘さんが亡くなったときのことを書いた文章です。当時、銭先生も4、5年寝たきりでしたが、そんななかで娘さんが先に逝った。中国には「白髪人が黒髪人を送る(親が子どもを葬送すること)」ということばがありますが、これはもっとも悲しいことですね。それなのに、楊絳さんはその出来事を決して「涙の物語」にはしない。とりわけ私に強烈な印象を与えたのは、楊絳さんが夢を見るシーンでした。「娘は遠くに行った。笑顔で行った。突然、じぶんの胸が張り裂けたような感じがして、血か肉のような塊が胸腔からポロリと落ちた。私は慌ててそれらを拾ってじぶんの胸中に戻すことにした。と、そのとき目が覚めた。」という一文です。

彼女が描く苦しみや悲しみは人の心を打ちます。楊絳さんのお宅でその原稿を拝読したとき、私は涙が止まりませんでした。というのも、私は彼らの闘病の一部始終を知っていましたし、楊絳さんの心の痛みを深く理解していたからです。ひとり残された彼女は、気丈にも『私たち三人』を完成させ、自分の仕事をやりとげたのです。

加藤

著者に寄り添い、著者を知り尽くした董さんがいたからこそ、この本も世に出ることができたわけですね。

私自身、編集者という職業はじぶんに合っていると思いますし、好きな仕事です。長年この仕事に従事してきましたが、ひとりの編集者として著者を理解するには、まず著者から教育を受けることからはじまります。そのいっぽうで、編集者もじぶんなりに著者に提案しなければ、すぐれた作品は生まれません。しかし、すぐれた作品はあくまでも作家の能力によるものであり、それを無視することはできない。いくらすばらしい企画を立てても、すぐれた作品ができあがるとはかぎりませんからね。もちろん、私たち編集者はさまざまな役割を果たすことができる。けれども根本的には著者を尊重しなければならないのです。

加藤

まったくそのとおりです。著者はわれわれの物質的生活の支えであると同時に精神的生活の支えでもありますからね。今回、董さんとお会いしてお話できて「本は人と人とをつなぐ」ということをほんとうに実感いたしました。

(2005年11月11日、中国・北京の一石文化にて)

Profiles

董秀玉 (Dong Xiuyu)

1941年、上海生まれ。56年から78年にかけて人民出版社で校正と編集に携わる。79〜85年に三聯書店発行の雑誌『読書』の創刊にかかわり、編集部主任を務める。86〜87年に三聯書店副総経理・副編集長、87〜92年に香港三聯書店総経理・編集長、93〜2002年に中国出版集団北京三聯書店総経理・編集長を歴任。99年より中国編集学会副会長を務める。三聯書店では、『随想録』『人道主義のための弁護』『西洋文論』などの著作のほか、楊絳著『私たち三人』の編集を手がける。また、『巴金訳文選』(中国大陸・台湾・香港の中国語版)や黄仁宇、銭鍾書、陳寅恪、余英時らの著作集をラインナップとする叢書、『郷土中国』『二十講』『中国重大考古発掘記』などのシリーズの企画のほか、『三聯生活週刊』の創刊に独力であたった。これらの企画は中国の読書界に大きな影響を及ぼした。

加藤敬事 (Kato Keiji)

1940年、東京生まれ。65年、東京大学文学部東洋史学科を卒業し、みすず書房入社。88年、取締役編集長、98年から2001年まで代表取締役社長を務める。みすず書房での最初の仕事は『現代史資料』(全58巻、1962〜96)のなかの「満鉄」(全3巻、1966〜67)の編集。以後、戦後日本の記念碑的出版物となる当シリーズの編集に完結まで携わる。編集した書籍は人文書を中心に広い領域にわたる。なかでも歴史書が多く、B.ルイス『アラブの歴史』(1967)、H.アレント『全体主義の起原』(全3巻、1972〜74)、M.ブロック『封建社会』(全2巻、1973〜77)、銭宝『中国数学史』(1990)などを手がける。退任後は、アメリカの書物史家R.ダーントンとEメールで往復書簡を交わしたり(『季刊・本とコンピュータ』15号、2001)、東アジア共同出版『東アジアに新しい「本の道」をつくる』(トランスアート、2004)の編集に参加するなど、日本の出版文化を外の世界に開こうと試みる。現在、関科学技術振興記念財団評議員。